著書 『聡明なのに、なぜか幸福になれない日本人』にいただいた講評

我々の生き方を剛直球で問う日本人論

法政大学教授 陣内秀信

 外国人が書いた興味深い日本人論というのが、時々登場する。もうだいぶ前のことだが、韓国の研究者、李御寧氏の『「縮み」志向の日本人』(学生社、1982年)は我々日本人の間で大きな話題になった。日本人は欧米ばかりを見ていて、すぐに日本固有の特徴と言いたがるが、そのほとんどは韓国とも共通し、むしろ韓国から由来したものも多い。ただ、何でも小さく縮めたがる志向性は日本人のもつ真の特徴で、そこから独特の価値ある文化が生まれた、という面白い論を展開したのだ。隣の韓国の文化人が日本の隠れた資質、特徴を見抜いた面白い本だった。
 それに対し、本書は、違う価値観をもつイタリアという遠い国からやってきて、日本に14年間住む著者の見た日本人論であり、異文化に対する好奇心と新鮮かつ知的な観察眼から掘り起こされた、実に刺激的な内容に満ちている。近年、著者の母国イタリアは日本人にとっても、ファッションや料理を中心に身近な存在となってきただけに、常にそのイタリアとの対比で語られる本書の記述スタイルは、それだけで読者を引き付ける。歯に布着せないストレートな言い回しは、ちょっと驚きでもあるが、本質をぐさっと指摘しながらの論理の展開には、独特の迫力がある。近年にない外国人から見た刺激的で面白い日本人論ではなかろうか。
 論旨は極めて明快。先ずは、日本人、あるいは日本社会の素晴らしい面が褒め上げられる。イタリアとはまったく逆で、日本は社会全体が見事に組織され、交通手段は正確に動き、役所は効率よく機能し、コンビになどの商業施設はサービスが徹底し、便利この上ない。人々の対応は礼儀正しく親切で、歓待してくれる。街の空間は奇麗だし、市民のマナーはいいし、完璧に社会が組織され、言うことがない、とまずは、徹底的に日本のいい面が論じられる。
 ところが、その反面、日本の社会には根本的な欠陥がある。「人々がまるで幸せに見えない」、とドキッとさせられる言い方で、痛烈に問題を投げかけるのだ。多くの人が自分を抑え、組織の論理に従い、特に目上の上司の言うことに絶対服従で、個人の自由というものを求めない、と言うのだ。著者はそれを「日本的システム」とネーミングする。縦型社会の論理の中で、均質な集団が求められ、出る釘は打たれる。こんなに聡明で賢い日本人が、なぜこの国のよさを活かすすべをもてず、幸せになれないのか、と問いかけるのである。
 「流れに合わせる日本人」と「流れに逆らうイタリア人」の対比が面白い。
思いあたることは沢山ある。例えば、イタリア人は他人に使われるのが嫌で、起業家精神が旺盛だ。イタリアでは国民全員が社長になりたいと思っている、といった言い方さえある。日本は逆で、自営業の比率が極めて低く、しかもその傾向はより強まっているように見える。一人一人が自立的に生きようとする独立心がますます希薄になっている。だから、この数年のように不況が続くと、パニックに陥る。
 もう一つ個人の生き方と関連して、常々思うことがある。「流れに合わせる」ことを求められる日本では、自分の好きな、得意なことをライフワークのように追求することは、まず許されない。役所でも企業でも数年毎に配属や職種を変えられ、何でもこなせるジェネラリストが養成される。出世にはそれが絶対に必要だ。出世を最初から諦め、管理職にならずに、自分の好きな仕事を貫いて、社会的には素晴らしい業績をあげた友人、知人が何人かいるが、組織の中ではほとんど評価されない。逆にやっかみを買う。こんなことを続けていては、日本には創造性がまったく育たないといつも思うのだが。
 好きなことを大切にするイタリア人の精神は、子供の教育にも現われているという著者の指摘が面白い。イタリアでは、日本のように「何でも食べなさい」とは決して言わず、「食べることは楽しいこと」と教えるという。受験勉強で若者が疲れ切った日本と異なり、大学で何を学びたいか、イタリアの若者が自分の夢を語るのを私も幾度も聞いたことがある。 
 だが日本にも、自由を求める生き方をしている人達がいて、30歳から50歳位の女性だという。まさに酒井順子の『負け犬の遠吠え』で一躍脚光を浴びたアラフォー世代を中心とした女性達だ。組織の論理に縛られず、仕事をマイペースでこなし、職場を出れば都会の自由を満喫し、休暇をとって旅行を楽しみリフレッシュする。ただ、まだ日本の社会では極めて少数派だ。
 もちろん、本書を通じて展開される著者の剛直球とも言うべき日本人分析の全てを鵜呑みにすることはできない。「個人の幸せの大切さ」を日本人は軽視しすぎ、との著者の指摘に、反論も可能だ。日本にはけっこう個人の趣味、オタク的な趣味の世界をもつ人は世代を問わず多いし、小市民的な幸せという言い方も奥が深いはずだ。仕事に生き甲斐を、という人のパーセンテージがイタリアと比べずっと高いのは、美徳にもなりうる。それは、著者の見方からすれば、本当に個人の幸せとは言えないということになるのだろうが。
 もっと日本社会の本質を探るには、単純な割り切りでなく、よりデリカシーが必要と言う反論もできよう。例えば、仕事が終わってから、職場の同僚、色々な仲間と飲みに行くあの楽しみは、実は日本にしかなさそうだ、といった類いの話は多そうである。
 しかし、著者のストレートな問題提起は、今の日本の我々にとって、極めて重要な点を突いていると思われる。日本社会の今日の閉塞感を突き破る上で、このような発想から我々の社会の在り方を変えていくことが求められている。
 著者は、こうした「日本的システム」はずっと続くだろうと予測する。その問題に気づき、自由を求める生き方の大切さに気づく人達が増えてほしいと期待を込める。だが、思うに、この「日本的システム」そのものがもはや行き詰まり、破綻してきているのが、今の大きな問題ではなかろうか。終身雇用制が成り立っていた時代が嘘のようだ。派遣社員やフリーターが増え、若者は上昇志向や元気を失い、ニートも増加し、なかなか突破口が見えない。
 個人の自由な発想を育て、新たな創造性のある産業や文化を生む努力をしないと、日本の社会は先が開けないだろう。そんな時代だからこそ、個人が自由を大切にし、パワフルで元気なイタリア社会の人々の生き方と比較することは、今、我々にとっておおいに意味があると思われる。

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